病院でひらいた生活ケア
学生の頃、私はどうしてもお金が欲しかった。
家業が破産して、進学するなら奨学金しかなかったので、
将来は自分で働いて、自分のお金で生きたいと思った。
その為には、世間の浮き沈みに関係ない仕事が良いと
単純に思った。
親には言えなかったので、おじさんに相談した。
「そりゃあ、病院の仕事が一番安定してる」
その頃、病院の新しい仕事として
リハビリテーションという言葉が
担任の先生から紹介された。
今思うと私を含め誰もこの言葉の意味を
正しく理解している人は私の周りにはいなかった。
私は、この進路指導にのった。
学校で学んだリハビリテーションは、おもしろかった。
理学療法は、覚えるばかりで大変だった。
きっかけはともかく、卒業する頃には「リハビリ」を
私は好きになっていた。
そして、奨学金の金額が最も高額な病院に入職した。
学卒新卒は誰でも輝く、そのキラキラを
「大量」の「寝たきり老人」を前に、
「治せない」医療職たちが軽く笑っていた。
医師は、お年寄りを棺桶に入る身体にしなさいと処方を出す。
看護婦(当時)は、あらゆることが気に入らないと制限してくる。
とにかく、ケンカばかりしていた。
ずっと負けていた。悔しかった。
思っているのに言葉にならない。
どんなに正しいことでも、その場その時に言えなければ、
もう次は無い。
どんなに悪いことでも、現実を変える力が無いならば、
それはまかり通る。
私には言葉も力もないことを思い知った。
よく泣いて、よくふてくされていた。
それでも、お年寄りは全然いつもと変わらないので、
しゃがんでる自分が、アホらしくなった。
そして言葉を求め、仕組みを読み取り、
相手の正義を越える何かを持とうとした。
私はこのことを「オムツ外し学会」で話した。
それを本にしたのが「病院でひらいた生活ケア」である。
私の初めての講演録でもある。
読み直してみる。言葉が荒い、勢いだけの行動が続く。
いろんな人、なかでも看護婦(当時)とぶつかっている。
よっぽど悔しかったのだろう。
そして、私は「地域」に出ようとしている。
病院の職員が、思い一つで「地域」に出ることは当然、
許されない時代である。
開業医との連携に相当な手間を取っている。
私の地域への不信感は、ここからきているのかも知れない。
とにかく、ひたむきであったと言えば聞こえは良いが、
当時の私と一緒に働いた人は大変だったと思う。
そして今、この「病院でひらいた生活ケア」が、
電子書籍として復刻される。
あれから30年以上の時を経て、
私の何が変わったのか、変わらなかったのかを
読み直してみたい。