芹沢俊介さんと、
《虐待》をテーマにしたセミナーで、
ご一緒させて頂いたことがあります。

芹沢俊介さんと、
《虐待》をテーマにしたセミナーで、
ご一緒させて頂いたことがあります。
その時のお話をあらためて振り返ってみよう。
芹沢さんは子供と母親、
私(高口)はお年寄りと介護職で、
虐待を話し合いました。
母親と子供を切り離す、それは虐待。
母子は互いを切り離せない、一体である。
母には二つの『母』がある。
一つは、生命として自分を産む母
もう一つは、子供の存在を受けとめる【母】
二つの『母』を体験して人は自己の充実を持つ。
特に受けとめ手としての【母】の受けとめを
自分は得られたという実感の有無によって、
子供の成長が大きく影響される。
子供に対して自らを受けとめ手の【母】として、
差し出す人がいることが子供にとってとても大切。
赤ん坊を例として子供は自分でできることは何も無い。
徹底して他者を選べない存在であり、
総てを受け入れるしかない存在である。(受動的存在)
この自分では何もできない時期に、
受けとめ手=【母】がいない状態こそ、
虐待と言っていいのではないか。
虐待を受けた子供は、
常に安定しない、不安な状態に陥る。
お年寄りにも同じことが言えるのではないか?
子供=(受動的存在)の時期を成長で越えて、
成人=(能動的存在)として社会活動を展開し、
年を取ることで人生再びの要介護・全介助となって、
老人=(受動的存在)となる。
イマココに安心して安定して私が存在する
→being
自分は存在していいんだと思えること
→誰かと一緒でないと感じることができない。
 一緒の誰か=受けとめ手【母】
子供が恐怖を感じること
●暗闇
●独りにされる
 ⇒受けとめ体験がある子供は長い時間孤独に耐えられる
●見知らぬ人がいる
3つは同じことである。
①自分の存在への脅かし
②自らの力で変えることが出来ない環境
③抑えようのない不安。
→寄る辺無さunliable
お年寄りを寄る辺無さに追い込むことが虐待である。
受けとめ手の欠如=絶対的な孤独
受けとめ手を内在化する事で、
受けとめ手が肉体として居なくてもいつでも一緒にいられる。
言い換えると内在化できないと、生きづらくなる。
孤独=ぽっかり穴が空いた状態。
この空洞をアルコール・ゲーム・賭け事他で埋めようとする。
これが依存症である。
徹底的に受けとめ手として身を投じる人【母】と出会う。
すると依存症が治る。
というより、自力と依存は対立しているのではなく、
その人にあった依存(受けとめ手)があるから
自立(個性)がある。
自立と依存は対立することではなく、補完しあっている。
介護職は、そのお年寄りのその人らしい依存を
見出しだからこそ、自立支援ができる。
受けとめられ欲求とそれを受けとめる構え。
介護の基本もまず、自分を差し出し、
目の前にある存在を受け止めることから始まる。
そこまで求められて、仕事として成立しますか。
人間相手の仕事には共通する構えで、
これが取れないのであれば、仕事ではないでしょう。
少なくとも料金に値しない。
本当のことは目には見えない。
〜サン・デグジュベリ
"星の王子さま“
大切なのは、
共に過ごした時間・かけた手間・共に泣く笑うその感情。
自分を差し出すことからすべてが始まる。
ということは、自分無き者に介護は無理ということ。
介護職に要求されているのは、内在化した【母】の役割。
と同時に社会的な立場であり、外在化されなければならない。
両方を請け負うからこそ、職業となるのか。
家族・身内だからこそ、一人で両方を請け負うのは難しい。
だから、【母】【父】【祖母】【祖父】などの役割がある。
イマココの充足感=良い3大ケア
今、美味しい。今、スッキリした。今、温かい。
この良き体験が良き関係を育む。
互いの存在を認められた。安心感を得た。
このことが記憶に残るのである。
もう一人の存在がある(介護職)ことで、お年寄りが存在する。
という人間関係につきる。
認知症といわれるお年寄りの思わぬ行動や言葉は、
人生最後の感情表出なんだから、
介護職は面白がっておおらかな受けとめ手になる。
面白がるのは不謹慎ではない。
私(高口)から、芹沢さんに最後の質問をしました。
〈質問〉
集団処遇の方が、
❶お年寄りの力を潰す・引き出さないから、
介護職の仕事量としての負担は更に大きい。
❷お年寄りの満足度は低いので、
  不満・不信・不穏が出る。→より手間がかかる。
❸職員の達成感が低いので、やりがいが持てず、
  定着率が下がる。→より人手不足になる。
❹事故・苦情が発生しやすく、この対応も大変だが、
  地域信頼を得られず、結果、利用稼働が低迷する。
このように、
非効率であるはずなのに何故、集団処遇を続けるのか。
または、一度手に入れた良いケアを手放すのか。
〈解答〉
近代の縮図。
人間を一人として見ていない。
その多様性に気づいてしまうと大量生産・大量消費が、
徹底出来なくなる。
仕事が時間通りに終わらないでは困る。
それは、集団主義のほうが無駄が無く、
国や社会にとって良いと捉える、誤った効率主義と重なる。
長くなりました。すみません。
この続きを次回に繋げます。